日本家屋、通常タイプではなくなったもの

日本にいながら、そして日本にありながら「日本家屋」というのはどうもひっかかる。通常タイプの家屋が日本家屋なのだったら、単に家屋でいいわけだし、他の家屋を新型家屋とでも呼べば良いのではないですかね。同様に、日本舞踊は滅多に踊る人がいなくなったから、日本舞踊と言うのだろうと思います。
美しい国、日本」は日本人がここが美しいと思ってもいないし、日本だなんてましてや毎日考えることもないということを示しているようです。さらに言うなら「新党日本」は日本と言っていないと日本ということを忘れそうになっているし、日本はそれだけ脆いもので、もしかすると、日本なんてものは想像の産物だということまで示しているような名前です。日本人はこれだからアイデンティティがとかなんとか言いたいわけではなく、日本人としてはそれが健全なことだと私は思います。毎日、外国人の方に会うわけではないのに、一日一回「私は日本人だ」と習慣的に思う人がいたら、逆に国に違和感があるんじゃないかと思ってしまいます。
さて、いま話題にしているのは、国家のアイデンティティの話ではなく、デフォルトのことです。
その① フランス人形はフランスでは人形なのか。フランスパンはフランスではブレッドなのか。日本でパンと言ったら、食パンかコッペパンか惣菜パンか人によって意見が分かれるだろう。パンを買ってきて、とお母さんが言ったら大抵の人が「なにパン?」と聞き返すだろう。聞き返されずに買ってこられたものを想像するのはかなり難しい。
その② スーパーマリオはマリオがデフォルトのはずなのに、4になるとスーパーマリオがデフォルトになる。スーパーサイヤ人サイヤ人だけで価値があるはずなのに、スーパーサイヤ人になれる人が大半になると、スーパーサイヤ人がデフォルトでスーパーサイヤ人をさらに超えなければまったく目立たなくなる。
その③ デフォルトという言葉の使用は私の中ではデフォルトだが、他の人にもデフォルトなのだろうか。
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言葉は周囲の変化に合わせてシンプルになっていくと良いと思います。もちろん、他の人とコミュニケーションがとれる範囲で、ですけれど。