新世紀xxx、ニュータイプxxx

デフォルト、通常タイプではなくなったものの話の続きになりますが、「新」とか「ニュー」とか「ネオ」とか「スーパー」とかもおもしろい言葉です。言葉はできればシンプルなほうが良いと言いましたが、シンプルにすることで意味が通じなくなることもあります。オリジナルあっての「新」や「ニュー」はそれにあたります。
ただし、「新鬼武者」や「スーパーサイヤ人」や「後醍醐天皇」や「セーラームーンスーパー」や「ネオアンジェリーク」はシンプルにすると意味が通じなくなりますが、「新書」や「新人類」や「新世紀エヴァンゲリオン」や「ニュータイプ」はそうではありません。それらのNEWはオールドと対比させようとして名づけられたのではなく、ただ現在地からスライドした位置にあるものだと理解されるように名づけられたものだからです。新世紀エヴァンゲリオンが近未来という設定になっている感覚に近いと思います。
もちろん、オールドと呼ばれるものはありますが、後者のNEWと対比されるOLDには特記する強度がありません。「旧」や「オールド」と付けられるものは、例外なく画期的なものとなりえなかったものなのです。
「旧式」「オールドファッション」と、「本家」「オリジナル」と呼ばれるかという差は、インパクトの強さの差でしかなく厳密に分離できるものではありませんが、だからこそ、注意深く「新」や「ニュー」を使って欲しいとも思います。
「新」や「ニュー」が氾濫した結果、「新」や「ニュー」がつくものは二番煎じであるという印象を拭うことができません。進んでいる時間の上にできたものは、何であれ「新」であるに決まっていて、それらすべてに「新」とつけるのは騒がしいからやめてほしい。とは思うものの、そう思ってもどうも遅すぎるし、言葉の流れが変えられるものではありませんから、言っても無駄なのです。
こちらとしては、「新」は「新」のものもあるし、もう全然「新」じゃないものもあると思って見るしかないのでしょう。そのうち、「新」だけでは、言葉が力不足で、「新」の上に「世界初」とか「本邦初」とか「本当にこんなの初めて」とか付けなければならなくなりますよね。つまり、それがいやなのです。まあ、言葉に敏感な人は「新」という言葉が力を失っていることに気付いていますので、連発する「新」は本当の「新」ではないというフィルタリングをすることもできるのですが・・・
真夜中の弥次さん喜多さん」もある意味「新」ですが、「新」とはつけていません。「新」の部分にあたる「真夜中の」を繰り返して「真夜中の水戸黄門」という本もあります。ずるい感じもします。もちろん、使い古された「新」をわざと使っているものもあります。そういうものは、模倣について考えてみなければならないでしょう。
はい、最近考えたのは、そんな感じです。