永遠にプロトコルを確かめ合うような

永遠にプロトコルを確かめ合うようなコミュニケーションが広がっている。永遠に、延々とプロトコルのみを確かめ合うことは不毛で表層的である意味では優しく、易しいものだと思う。通信ができることをずっと確かめ合うレベルの会話。あなたとコミュニケーションが取りたいと示すミラーリング。共感を求める投げかけ、同じ経験をしましたと同意する。頷きの優しさ。反発することも、他者からの評価を求めていないと言うことも結局は同じこと。人は何を言おうとも相対的にしか生きられないのだから。
反響を確かめることで測る距離。プロトコルが合わなければ、すぐに手放されるコミュニケーション。手放して良いのだろうか? プロトコルが合わないことなど予想されていない弾性のないシステム。同時に堅牢なシステム。永遠に永遠に同じ中で生きられるように。手放されたものたちはどこへ行くのだろう。別のプロトコルの中で永遠に永遠に出てこないのだろうか。情報通信も交通もこんなに発達したけれど、世の中は言われるほどには混じり合わず横滑りするように進んでいるのではなかろうか。
何だかそういう状況に多少がっかりしてしまう。なぜだろう。私は無駄な穴ばかり掘っている気がする。